「これで、瀧壺まではまだ二丁からあります。」 同じくぼんやりと側に添うて立つてゐた馬車屋はいふ。それを聞くと私の心には一つの惡戲氣が浮いて來た、私が其處まで行くとするとこの馬車屋奴はどうするであらうと。 私は裾を高々と端折つて下駄を脱ぎ洋傘(かうもり)をも其處に置いて瀧壺の方へ岩道を攀(よ)ぢ始めた。案の如く彼は一寸でも私の側から離れまいとして惶てて一緒にくつ着いて來た。苦笑しながら這ふ樣にして岩から岩を傳はらうとしたが、到底それは駄目であつた。殆んど其處等一帶が瀧の一部分を成してゐるかの如く烈しい飛沫が飛び散つて、それと共にともすれば岩から吹き落しさうにして風が渦卷いてゐるのである。それでも半分ほどは進んだが、たうとう諦めてまた引き返した。安心した樣な、當の外れたやうな顏をして馬車屋もまた隨いて來た。私はこの男が可哀相になつた。はつきり人違ひの事を知らせて、酒の一杯も飮ませてやらうなどと思ひながら、もとの所に戻つて來ると、先刻(さつき)の馬車の連中が丁度其處へやつて來た。お寺の方へ先に行く筈であつたが、私達が如何してゐるかを見るためにこちらを先にしたものかも知れぬ。驚いた樣に私達を見て笑つてゐる。私は再び彼等と一緒になる事を好まなかつたので、直ぐ其處を立ち去らうとした。そして馬車屋を呼んだが、彼は何か笑ひながら向うの連中と一緒になつてゐて一寸返事をしただけであつた。 少し道に迷つたりして、やがてお寺のある方へ登つて行つた。何しろ腹は空いて五體は冷えてゐるので、お寺よりも宿屋の方が先であつた。その門口に立ちながら、一泊させて呉れと頼むと、其處の老婆は氣の毒さうな顏をして、此節はお客が少いのでお泊りの方は斷つてゐる、まだ日も高いしするからこれからまだ何處へでも行けませう、といふ。實は私自身強ひて泊る氣も失(な)くなつてゐた時なので、それもよからうと直ぐ思ひ直した。そして、それでは酒を一杯飮ませて呉れぬかといふと、お肴は何もないが酒ならば澤山あります、といひながらその仕度に立たうとして彼女は急に眼を輝かせた。 「旦那は東京の方ではありませんか?」 オヤ/\と私は思つた。それでも既う諦めてゐるので從順に左樣(さう)だよと答へて店先へ腰を下した。 「それなら何卒お上り下さい、お二階が空いて居ります、瀧がよく見えます。」 といふ。